1リットルの涙①

今日のコラムも志賀美春さんの
メルマガからの引用です。

このドラマ
再放送などがあればぜひとも
見てほしいです。

<私の思い>

映画やテレビドラマ化された「1リットルの涙」。

ある日、普通の中学3年生だった木藤亜也さんが
脊髄小脳変性病という、
体の動きを司る小脳の細胞が減退していく難病を発症します。

この話は、亜也さんが、その難病と闘う日々をつづった日記を
もとにして作られたものです。

まだ、若い亜也さんは、その日記の中で書いています。
「病気は、どうして私を選んだの?」と。
当然です。

亜也さんのお母さんなど
もっともっと強く思っていたことと思います。
なぜ、私でなく娘なのだ、と・・・。
私も自分の子どもに当てはめて考えただけでも
辛くて仕方ありません。

亜也さんの闘病中、ある日、入院中の病室にお母さんが入ると、
亜也さんは懸命に何かを書いていました。

それは・・・。
「私は、何のために生きているのだろうか?」
という心の叫びの文字でした。

それを見て、お母さんは、娘が小さいころから望んでいた
「人さまのお役に立つ」
に少しでも近づけるように
日記を本にして出版することに決めたのです。

この悲痛な叫びは、生きていること自体を
考えずにはいられません。

今有る状況は、人それぞれであり
一人として同じものは無いはずです。
人それぞれに「何のために生きている」という
生きている理由があり、
その生きている理由に向けて、日々を生きている・・・

その構図があって当然だと思います。

ただ、亜也さんの場合
その今の状況が他の人に比べて非常に重い
苦しい状況であったということです。

しかし、人の役に立つことが好きな亜也さんは
生きているだけで苦しくて、しんどくて・・・
人の役に立てないことが、もどかしくて、先も見えない・・・。

そんなときに
お母さんが日記を本にして出版する、という行動に出て、
存命中に出版された・・・。
これは、素晴らしいことだと感じました。

本来、寿命というものがある以上
誰の人生にも終わりがあり
その時点で成し遂げるべきこと
のために生きているはずです。

もちろん、DNAに刻まれているのは
種の保存と言う大きなミッションはありますが
社会生物として生き続けてきた私たちにとって
社会とのつながりなしには
今までもそうであったように
今後も命をつなげていくことはできない
と言えるはずです。

ですから、亜也さんのみならず、全ての人が
「何のために生きているのか」の問いに、
答えを各自持ち、そこに向かう過程での現状に
不足しているものを解決していくこと。

これが、人生だ、と私は思っています。

人は誰もが亡くなります。
25歳で亡くなった亜也さんは、自分は
「何のために生きているか」と見つめ、
結果お母さんや出版社や大勢の読者の力を得て
「人の役に立ちたい」という人生の目的に
近づこうとしたのです。

これは、100歳で天寿を全うして亡くなる人生は幸せで
そうでなかった亜也さんは不幸せだ、
とかいう話ではまったくないのは誰もが納得できることだ
と思います。

だから、全ての人は自分が主体なのであり、
「今ある環境がどうであるとか、誰がどうであるとか
お金がないとか、時間がないとか、体が悪いとか」
という解釈と、自分が創り出す人生の出来とは、無関係なのです。

亜也さんの苦しみは、全く同じレベルで感じることはできません。

ただ、亜也さんの生きた人生と人生で
成し得たことに最大限の敬意を表したい、と感じました。