今日の思いつきコラムは
友人の志賀美春さんのメルマガからの引用です。
命に関する本当に考えないといけないお話です。
<私の思い>
テレビで出産前診断で
お腹の子供に母親と同じ障害があることが分かり、
出産するか否か、で悩む家族の姿を放映していました。
母親自分が同じ障害で親と共にずっと苦しんできて、
その障害を持って生まれてくる新しい命を産むか、産まないか?
難しい問題です。
確かに、生まれてきたら、苦労や悩み
悲しみが通常より多い人生でしょう。
我が子に自分と同じ苦労をさせたくない・・・
そういう親心もすごくよくわかります。
でも、苦労するから、産まない・・・。
苦労しないなら、産む・・・。
この考え方で、DNAを繋げていく
という重要な出産の是非を問うて良いのだろうか?
そういう気がしました。
テレビでは、出産の決心をし、ご長女が誕生されました。
傍で思う以上に生易しい今後ではないかも知れませんが、
良かったなぁ、と思いました。
もしも産まない選択をしていたら
実際この奥さんも生まれてこない方が良かった、
という存在になってしまいますし
今までにあった嬉しいこと、結婚したこと
何もかも否定することと同じこととなり
自分を苦しめ続けたことでしょう。
私自身の話をします。
今3人の子供がいますが、2番目と3番目の子の間に
本当は生まれるべき命がありました。
その命は、6ヶ月を過ぎていて
死産という形で母体から出ました。
ちょうど、その死産での家内の入院の直前、
私は三井住友銀行よりの転勤の辞令を受け取りました。
私の転勤のドタバタの最中
家内は、まさに悲しみ一杯の死産をし、
男女の別も分からない小さな遺体を小さな棺に入れ
たった一人で見送り、そして一人で自宅に帰宅したのです。
一方、私は仕事の引き継ぎと送別会の主人公ということで、
当日仕事をして、夜は歓送迎会で飲み食いしていました。
その時、私は死産というものの重さを
全く理解していませんでした。
ただ、出産という過程の中で不具合があって、
うまく行かなかった・・・というだけの認識でした。
当時、小学生だった長男や次男が死ぬ、ということとは
全く次元の違うことでしかありませんでした。
しかし、家内にとっては、同じ子供の死であり、
私は、たとえば長男次男が今際にあっても駆けつけもせず、
葬式にも出ないような非情で無関心な親という認識をしたのです。
取り返しのつかないことですが、本当に亡くなった子にも、
家内にも悪いことをした、と慚愧の念に堪えません。
30歳も過ぎていて若気の至りでもありませんが
恥ずかしい限りです。
今日のテレビでやっていましたが
出産前診断で異常が見つかった場合
8割以上の方が、堕胎を選択するそうです。
テレビで出産を決めたご家族は十二分に悩み
話し合い、選択を尊重し、
誰が選択した、ではなく
結果を自分の選択として最大限関わる覚悟を決めて、
出産に臨みました。
でも、残り8割以上の堕胎する人は
昔の私のようなうまく行かなかったから、
ゲームをリセットしてもう一度・・・。
みたいなことでなければいいなぁ、と思います。
命の重み、生まれてくる権利、生きる権利、それらの尊重と
その命を育み続ける覚悟、愛し続ける覚悟
そして、子に向ける深い愛情に対する尊重といたわり。
昔の私に欠けていたそれらを忘れてはいけない、と痛切に思いました。